衝撃のHカップの即ハメに成功してますますテレクラにハマる

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スイートコールで目が眩むような巨乳女と出会うことになった。そのカップ数はというと、なんとHカップ。すさまじい巨乳だ。

Hカップというのがどの程度の大きさのバストなのかを把握するために、思わずABCの歌を口ずさみながら指折り数を数えたくもなるではないか。

さすがにHカップともなると隠れ巨乳などにはなれない。どんな服を着ていても彼女の巨乳を隠すことはできないだろう。いや、彼女の巨乳を隠す服、というテーマでファッションショーを行ったならば、秀逸なデザインが提出されるかもしれないが。

とはいえ、巨乳を隠す服を着た彼女がランウェイを歩くとき、その巨乳は、ファッションデザイナーの苦心をあざ笑うかのように激しくバインバインと一歩ごとに揺れ弾んでしまうのではないか?もちろん、その乳房の振動さえも押さえつけるような窮屈な服のデザインが即座にスケッチされることにもなるだろう。

ブラジャーに支えられ、窮屈に閉じ込められた彼女の乳房はもちろんのこと、肩こりの原因ともなるであろう重みを持った彼女の乳房を支えるブラジャーもまた、苦しそうであった。

Hカップのテレクラ女性がテレクラを利用するのは、あるいは、この窮屈さに原因があるのかもしれなかった。

彼女は現在ではセックスが好きなようであるが、はじめは、なんでもいいから乳房を解放して楽にする機会を欲していただけなのではないか。窮屈なブラジャーをとりはらって、全裸で過ごせる時間を増やしたかっただけなのではないか。

社会生活を全裸で行うことはできない。露出狂以外の人間は着衣を余儀なくされる。だから、彼女も普段は窮屈さを我慢して服を着ながら、隠しようもなくその存在を主張してやまない乳房をなんとか隠して暮らしている。

乳房をしめつける拘束具ナシで暮らせたらよかったのに、という彼女の不満は、テレクラで出会った男と出会い、その男性の前で乳房を解放する瞬間に解消される。そのことに彼女自身は気づいていない。

乳房の窮屈さは、彼女自身が抱えている精神的な窮屈さとも繋がっているのではないか。それは、性的なことをしてはいけない、という窮屈さ。性的にあっけらかんとしているとヤリマンなどと称されて侮蔑されてしまう社会に対する窮屈さ。

ブラジャーという拘束衣と彼女の乳房による窮屈さは、彼女自身が抱えている全体的な窮屈さの象徴であるのではないか。

横たわりパイズラれ、彼女の解き放たれた乳房が縦横無尽に形を変化させながら動き回り、私の陰茎を圧迫する感触にイキそうになりながら、私はそんなことを考えていた。

巨大な乳房をぶらさげながら生きるというのはどんな気持ちなのだろうか。巨乳とはどんな人生を歩むのだろうか。そんなことを考えながら私は騎乗位でうえになったテレクラ女を激しく突き上げ、乳房を仰ぎ見た。

私にはわからない。巨乳の一生というものが、どれほど窮屈で苦しいものかを。私にわかるのは、巨乳の女性とタダマンができるテレクラライフを送っている男性は幸福であるということだけであった。

それが一生ものの幸福ではなく瞬間的な快楽がもたらす幸福であったとしても、Hカップをバックから突きまくっているときの私以上に幸福な男性はいなかったし、私があらゆるものから解き放たれて自由であることは確かであるように思われた。

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