スイートコールでハメ撮りOKなテレクラ女性を探すのに夢中になっている。やはり誰かに与えられたエロじゃなくて、自らの手で獲得したエロというのがよい。
これからは消費よりも生産だ。それはセックスについても同じなのではないだろうか。人によって撮影され編集されたポルノを涎と我慢汁を垂らして消費しつづけているだけじゃいつまでたってもオナニーをする猿のままだ。
ポルノを再生する手、ポルノを鑑賞しながら陰茎をシコりあげる手を、スイートコールに電話する手、スイートコールで口説き落としたテレクラ女性をハメ撮りするためのカメラの録音ボタンを押す手に変えること。
たったこれだけのことで、手の役割のわずかな違いによって、人は別人であるかのように大きく変化できるのだ。
ハメ撮りなんてできない。あんなのはポルノ業界のプロフェッショナルにしかできない行為だ、などとやる前から諦めてしまう前に、まずはテレクラを利用することをオススメする。
テレクラで出会う素人女性のすべてがハメ撮りを許してくれるわけではないが、条件付きでハメ撮りを許してくれるテレクラ素人女性は結構いる。
今回即アポに成功したテレクラ女性も、「マスクで顔を隠してもいいなら」という条件付きでハメ撮りを許してくれた。なんとありがたい存在だろうか。
鼻から下が隠れているだけで、その他の部分はすべて撮られているというのに、テレクラ女性の判断基準というのはまったく不思議である。
マスクをズラしながらの乳首舐めやフェラチオのときは、ほとんど顔のすべてが見えている瞬間もあったというのに、そういうことはあまり気にしないのだから、謎は深まるばかり。
しかし、深まる謎に動揺しているヒマはない。カメラはまわしつづけなければならない。
顔が隠されていることによってエロさが増すタイプのテレクラ女性であったことも今回は収穫であったと思う。
口元が見えてがっかり、というタイプの女性も多いのがテレクラであるので、むしろ、隠された部分によって自分に与えられた余白が想像力をかきたてて、性的に強くそそられたのだった。
ハメ撮りを通して見る光景は、自分の欲望の所在をあらわにする。テレクラ女性のハメ撮りを見るということは、自分の欲望を批判的に見るということで、そのカメラを通した視界を通して、次のハメ撮りのプランや、普段の生活の性的眼差しが練り直される。
たとえば、街中などで巨乳女性を見かけると、男性はその衣服に隠された豊満な乳房におのずと眼がいってしまう。男性というのは、自分がそのように視線を動かしたことが相手の女性にバレないように、即座に巨乳から眼をそらすのだが、そらしながら顔を確認してもいる。この巨乳の持ち主は一体どんな顔か、と判断して、再び乳房へ目線を向ける、という視線の往復を、わずか数秒のうちに行う。それらの視線は女性にはすべてバレていると考えていいだろう。
撮影したハメ撮りの映像を見ると、そういった視線の動きをしていることを自覚させられる。もちろん、路上を歩いているときと違い、視線が乳房の上にとどまる時間は長い。安心して乳房を眺めまわし、それから、顔をゆっくりと確認する、という時間の流れがしっかりと残されている。ハメ撮りでなければ、こういった視線の余裕はあるまい、と感嘆の溜息をつく。
性行為が始まってからも、そのテレクラ女性とのセックスにおいて何を重要視しているか、ということがハメ撮りにおいてはことごとく明らかになっている。今回のテレクラ女性であれば、やはりそれは乳房であった。
服を脱ぐときはもちろん、その乳房を実際にもみしだくときや、舐め回すときの乳房、また、パイズリを施され陰茎を挟まれているときの乳房、あるいは、挿入にともなって騎乗位や正常位などの体位の変更によって振動の仕方をかえる乳房などを、私のハメ撮りはくまなく執拗にとらえていた。それは、くらいつくように、という言葉がふさわしいカメラワークであった。
みずからのハメ撮りを確認しながら、セックス時の射精を思い出しつつオナニーをする。今回のハメ撮りは傑作である。自分のテレクラハメ撮りコレクションの中でAに分類されているフォルダに格納され、何度も使用されることになるだろう。
それにしても、また生産的なセックスをしてしまった。生産的セックスができるテレクラを知ってしまったら、消費的オナニーではもう満足できない。