スイートコールで出会った女に甘いものを食べさせてそれの感想をもらうのが俺のライフワークだなんて、まったくよくいったものだ。
実際のところ、スイートコールを利用する女が甘いものを食べた感想など心の底からどうでもいいと思っていて、頭のなかではどんなセックスが可能かだけを考えているくせに、ライフワークなどといって今日もスイートコールを利用するテレクラ女に極上のどらやきを振る舞っているのだから、呆れるばかりである。
テレクラ女とセックスすること。それが俺のライフワークであり、俺はこのライフワークに一生を捧げる覚悟でスイートコールを利用している。
もちろん、ライフワークは途中で中断されるだろう。なぜなら、自分のペニスがいつまで勃起を続けてくれるのか、それ次第で、テレクラ女とのテレクラセックスが継続できるかどうかが決まってしまうからだ。
もちろん、宦官のように、ペニスなしで性欲を持ち続け、挿入なしで女性を性的に蹂躙することも可能であるから、俺のライフワークは俺の性的不能によって中断されることはないのかもしれないが、いまのところ、挿入なしでテレクラセックスをする自分というものがうまく想像できない。
あまり未来のことを考えすぎるのはよくない。目の前のテレクラ女とのテレクラセックスに集中するべきだ。勃起能力があるうちに、勃起能力を駆使して楽しめることをしておかないと、勃起ができなくなってから後悔することになるだろう。
ヤレるときにもっとヤッておけばよかった、という苦悩を漏らす不能は多い。俺はそういった不能を飽きるほど見てきた。できれば俺はそういう不能にはなりたくない。
俺としては、性的不能になったときに、俺は性的不能になるのも仕方ないくらいヤッた。テレクラ女の膣中に精液という精液を注ぎ込み、精嚢が空になって二度と充填されないほどにヤッてヤッてヤリまくった。だから、こうして勃起しなくなったことに後悔はないと、そのように言える不能でありたいと考えている。
だが、こういった俺のスタンスをテレクラ女に伝えるとドン引きされることがあるから、俺は甘いものを食わせるのがライフワークでね、なんていって自分の性欲の強さに緩衝材をかませるようなやり方をとっているのだが、果たして、こんなことに意味があるのだろうか。
甘いものを食べているテレクラ女を見ている時間はとにかく退屈だ。そのどら焼きにむさぼりつく口を一刻もはやく自分のペニ棒に向けてくれないか、ということばかり考えてしまうし、自分で与えて食わせていたどら焼きを無理やり奪い取るという理不尽な行動をとって、ディープキスをしたくもなってしまう。
というか、実際にそうしてしまうのだし、テレクラ女性としても、着衣でどら焼きを食べているときよりも全裸でペニスをくわえているときのほうが生き生きとしていて魅力的だ。なぜ自分は甘いものなどというクッションをはさもうと思ったのかわからなくなるほどだ。
バックから激しくついているとき、テレクラ女性の乳房がベッドのシーツのすれすれのところで揺れ続けるのを見て、俺はシーツに嫉妬する。自分にふれるかふれないかわからないようなギリギリのところを乳房が揺れているのをぜひとも間近で見てみたいと思うからだ。
ゆれる乳房の乳頭はやがて見上げる私(シーツ)の鼻先をかすめ、往復ビンタするように何度も鼻先を叩きながら通り過ぎたあと、ぐにゃりとその乳房全体を押し付けるに至るだろう。
バックで突きながら私が嫉妬するのは、その乳房の感覚を、テレクラ女性の腰をおさえて激しくピストンする私ではなくシーツが感じ取っているということにある。
テレクラセックス中、自分の身体だけが自分の身体であるということの限界が辛くなることがある。自分の身体が触れていないテレクラ女性の肉体の表面すべてを、自分の身体以外の器官で感受できればいいのにと願うのは、あまりにもわがままだろうか。
触覚を拡張し、テレクラ女性が触れることになる自分の肉体の外部にある様々な「もの」として、テレクラ女性の肉体を感じられたらいいのに。
たとえば、私がどらやきであったなら。彼女の口によって噛み砕かれ、飲み込まれ、食道を通り、胃の腑のなかでどろどろに溶かされ、腸内を通過しながら糞便に変身する全過程を、どらやきとして体験する一方で、テレクラ女性を激しくバックからつくテレクラ男性の肉体としても体験するという二重の体験が自分に訪れたならば、そのときの性的快楽、いや、もはや性的かどうかも定かではない快楽、ともすると快楽としては認識できないような感覚はどのようなものになるのだろうか。
テレクラというライフワークのなかで、そういった不可知の感覚を知ることができる日はやがてくるのだろうか。