スイートコールのテレクラ女の地味な面影が残るエロさが最高

スイートコールのテレクラ女の地味な面影が残るエロさが最高

スイートコールを利用するような素人テレクラ女は、学生時代に性的に抑圧されていたような女が多い印象がある。今回は特にその傾向が強かった。

学生時代の欲求不満が、社会人になった日々のストレスと重なり合い、スイートコールの利用による性欲の解消という方向へとテレクラ女性を突き動かす。

中学高校時代はおそらく地味だったと思われるテレクラ女は、大学合格ぐらいから化粧の方法を覚えるのだろう。

そして、化粧だけでなく、ファッションや髪型などを工夫することによってそれなりの見た目になれるということを学ぶ。大学というのはそんなことを学ぶための場所ではないというのに。

もちろん、シラバスに記載されていない「学び」であるところのセックスを実践することも決しておろそかにはしなかっただろう。

キャンパスライフの半分以上はセックス。アカデミックであることの困難さから性へ逃避するというのは、ある意味仕方ないことであるといえる。

今回スイートコールで出会ったテレクラ女性が、テレクラセックスのしすぎで大学を中退したというのもむべなるかなといったところである。

もともと学びたいことなど一つもないのだから、無理して単位をとるくらいなら、その時間をテレクラセックスにでもあてたほうがいい。その彼女の判断は実に正しい。

学生とセックスをすることを好むタイプの大学教授としても、学生であるよりは、もと学生であるほうが社会的には都合がいい。中退した学生に小遣いを渡し、愛人的セフレ関係を結ぶ大学教授は一定数存在するのだ。

スイートコールを利用するテレクラ女性から聞いたセックスキャンバスライフの裏側のすべてを詳述することはできないが、彼女もまた、中退した大学とは、いまでも「セックス」という形で繋がりを持っている。

「中退こそすれ、決して中絶はせず」を合言葉にして繰り広げた性的教授陣とのセックスによって叩き込まれた性のテクニックは、スイートコールという在野研究の場所に彼女が降りて活動領域を以降させたときに、テレクラセックスというフィールドワークをするために大いに役に立つことになるだろう。

彼女が在野の研究者としてテレクラセックスを通して獲得した「成果」は、セフレ教授陣とのセックスという形でアカデミックな領域にも還元され、影響力を持つことになり、一方で、在野からの報告を受けたセフレ教授陣はその「成果」を活かして決して無駄にすることなく、自分の専門である性の領域を深め、広めていくことに余念がない。

「テレクラを利用するような旧世代の男」という、テレクラセックスの在野研究者であるテレクラ女性にとっては格好の研究材料であるところの私は、ただただセックスがしたいという感情に突き動かされていただけなのに、知らず知らずのうちに学問とはおよそ遠い非学問的研究の素材として、格好のサンプルとして、テレクラ女性との待ち合わせ場所に足を運び、ラブホテルに移動し、その使い込まれた陰茎をまろびだすことになるのだ。

表面的に派手めのメイクをし、露出度の高い格好をしているが、「地味な学生だったころ」の面影が消えていないテレクラ女の見た目を見た瞬間に、私は直感的に、彼女が在野のテレクラセックス研究者であり、アカデミックな領域からは身を引いているが、その探究心は衰えていないという骨太さを感じ取った。

私は、テレクラを利用する男として研究の対象とされることに抵抗がまったくない。たとえ研究の対象であるとはいえ、素人女性とセックスができるのだから、抵抗などをする必要はそもそもないだろう。

むしろ、みずからすすんで身を差し出したいのだ、とさえ言ってもいいし、言うまでもなく、実際にそうしている。そして、濃厚なテレクラセックスにありついている。

テレクラを利用するにあたって重要なのは「素人感」だ。「地味な学生だったころの面影」がどうしても消えない在野研究者タイプの中退テレクラ女性などは、私の「好み」にドンピシャで合致するというのもある。つまり、私は、性癖的には「在野研究者型のテレクラユーザーの女性」にフルボッキする主体なのである。

いや、フルボッキする主体であるばかりでなく、その勃起した陰茎をテレクラ女性に見せつける主体であるのだし、テレクラ女性の乳房を衣服越しに揉みしだく主体でもある。

ストリップ劇場では決して見ることができない素人女性の脱衣を眼差す主体であると同時に、突き出されたケツに顔面を埋める主体でもある私は、テレクラ女性の陰唇に舌を這わせる主体になるあたりから、少しずつ、快楽を通して主客の区別を喪失していく。

「クンニリングスする私」から「フェラチオされる私」あたりを分岐点として、私と在野研究者型テレクラ女の肉体はその境界線を見失い始め、言葉が機能しなくなる地平に到達することを目指してお互いの肉体の可能性を使い果たす。

挿入はひとつのメルクマールであるともいえるが、メルクマールって一体なんだ?私はメルクマールという言葉が何を指し示すかわからなくなっているので、「挿入」という言葉との混同が生じる。あとは、この境界線の喪失による分節化の解体作業をピストン運動を通して展開していくだけだ。

テレクラ女性の絶頂と自分の射精が一致する性的快楽のゼロポイントを目指した濃厚セックスは過激を極め、おそらく、テレクラ女性が教授に報告することが困難になる閾を目指し、その閾のうえをいったりきたりするばかりだ。当然ながら、私も「閾」のうえのセックスをどのように言葉にしたらいいのかわからない。

精液を浴びたテレクラ女性の顔面はイキ顔ではなく閾顔であったか。

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