ハニーラインのエロすぎる女は存在そのものが性器だった

ハニーラインのエロすぎる女は存在そのものが性器だった

すべての言動が男性の性的欲望を歓喜し、それをいたずらに刺激して増加させてやまないというタイプの女がたまにいるが、テレクラのハニーラインで出会ったのはまさにそういう女だった。

全身性器という言葉でもって彼女を表現することもあるいは可能であるのかもしれないが、彼女の性器としての全面的な魅力を身体というものに限定するのではまだなまぬるく、完全ではないように感じられる。

存在性器というのはどうだろうか。しかし、これを歩くオマンコなどと翻訳するのはあまりに簡単すぎるのだし、オマンコ以外の彼女の細部に宿る様々な性器を無視しているということにもなるのではないか。

たとえば、彼女の無意識の媚びは、その態度自体が男性器の勃起を促す性器である。

すでに存在性器という「存在そのものがすべて性器である」という言葉で彼女を評した以上、彼女の媚態、すなわち態度性器に関しては「存在性器のなかに含まれる態度性器」として判断されるであろう。

こういった、彼女の「存在性器内性器」とも呼べる性的要素、エロすぎる細部を一つ一つ挙げていったらキリがない。

全身くまなく検証して、彼女の肉体にはおよそ性器的ではない箇所がまったく見いだせないのであって、誇張ではなく、毛穴の隅々、そして、髪の毛の一本一本まで性器である。

視覚的にも性器であるし、触覚的にも性器であるということは言わずもがな。

そして、彼女の「声」という肉体的な特徴もまた性器である以上は聴覚的にも彼女は性器なのだし、「存在性器内性器」の肉体面のあらゆる場所から嗅ぎ取ることができる様々な「におい」も男性器を刺激してやまない嗅覚的性器として機能しているということは言うまでもないことであろう。

それから、彼女は精神性が性器であるということである。肉体の表面から届けられる性的なサインは、彼女の精神の深奥が性器であることによってより強烈なものとして男性一般を勃起させることになる。

つまり、彼女の魂は性器であるということだ。性器としての魂というものを目視することはできないが、彼女は、魂性器というものの所在なり実質を、様々な仕草や言葉遣いなりを通して外部にさらけだそうとするようであった。

魂が性器であるかどうかということは、存在性器であるかどうかを決定づける最も重要なポイントであるのではないか、ということを、私は彼女とのテレクラセックスを通して痛感したものだった。

明らかにエロい肉体を持っていながらもまったく性的欲求が歓喜されない女性がいる一方で、ルックス的にはそれほど魅力的ではないにも関わらずわけもわからず性欲を刺激される女性がいるということの謎を、私は、今回のテレクラセックスを鍵にして解いたように感じている。

彼女の場合は、明らかにエロい肉体を持っている全身性器であると同時に、身体の内側にある不可視の領域の内面までエロいという魂性器でもあったのだから、そのような女性はまさに存在性器と呼ぶほかないではないか。

私は、このようなことを存在性器によるフェラチオ、および、フェラチオされながらのバイブを用いたオナニーを眺めながら考えたわけだが、このような知見を得ることができるというだけでも、テレクラハニーラインを使ってよかったと思うのである。

魂性器を持つ女の口内性器内射精後、彼女の魂性器は歓喜し、顔面性器は笑顔性器として輝き、彼女の口内性器から飛び出した舌性器のうえの白濁は、やがて彼女の存在性器の内部空間にある食堂性器を通過して胃腸性器のなかへと潜り込み、時限爆弾のように潜伏したのちに彼女の糞便性器として肛門性器からにゅるにゅると排出されることになるだろう。

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