仕事のあとはテレクラでセックスでもしないとやってらんないよね

仕事のあとはテレクラでセックスでもしないとやってらんないよね

バイトの帰りによくスイートコールに電話しているというマシュマロボディの彼女の気持ちは私にもよくわかる。

無為な労働をしただけで終わってしまう一日の虚しさというのは尋常ではない。

その空虚な労働が何日も何日も繰り返されて、日にちや曜日や時間の感覚が失われていく段階に至るころには、あっという間に若さが失われており、ふと気がつくと、鏡には年齢以上にずっと老け込んだ自分の顔が映り込んでいる。一瞬、それが自分の顔ではなく、自分の親の顔であるような錯覚にとらわれ、心臓が止まりそうになる……

こういった無為の労働の日々の過ぎ去っていく時間に対抗する手段が、退勤後のセックスしかないというのは実に情けないことだし、セックスによって無為を耐えさせられているという感覚もあるとはいえ、それでも、セックス以外にそれを食い止める方法がないのであれば、やはり、私も、テレクラを使う彼女も、セックスをしなければならない。

そうして、私と彼女はスイートコールという場所で、お互いの無為の日々に“くさび”を打ち込んで、ほんの少し流れていくだけの日々の流れに逆らおうとして出会い、セックスをしたのだ。

私の男性器がくさび、彼女の女性器がくさびを打ち込まれる割れ目。打ち込み、打ち込まれるなかで、わたしたちは現実の恐ろしい時間に対抗するわずかな勢力として結託する。

もちろん、くさびは翌日には時間の激流のなかで割れ目から引っこ抜かれてしまうのだから、いっときの抵抗でしかないにせよ、それでも、ほんの少しであれど、ただ流れていくだけの日々のなかにセックスという垂直化した時間を打ち立てる。

わたしたちのセックスは、スイートコールで出会った彼女の背中に掘られていた入れ墨のように消えないものではなく、かならず消え去る運命にあるとはいえ、その一瞬ごとの快楽は、肌に刻み込まれた入れ墨のように、その瞬間こそは永遠を目指すのである。

永遠かと思われたフェラチオの記憶は薄れつつある。それは鏡にうつる私の老化を止めることはできなかった。だが、スイートコールを利用する彼女にフェラチオをされているその時間だけ、私が苛烈に生きていた、ということは確かであったように思われる。

それは何も食い止めず、労働の日々に対する敗北でもあるのだが、しかし、肉付きのよい彼女の腕を掴みバックから激しく突き上げていく快楽の時間を私は強烈に生きてみせたのだ。日常生活の茫洋とした繰り返しのなかには決して現れてこない生命が過激化する時間を。

それは、その場限りで消え去る。セックスの快楽は、スイートコールをバイト帰りに利用する彼女の背中の入れ墨のようには残らない。だからこそ、その場限りで消えていく入れ墨を彫るようにして、私はテレクラ女の女性器を男性器で掘りつづけていく必要がある。

テレクラのセックスがなければ、私は労働を一秒も耐えることができないだろう。バイト帰りにスイートコールを利用する彼女も、そのような考えであったということを、私は疑わない。何よりも、後背位で突かれながら喘ぎまくり乱れ狂う彼女の揺れる乳房がそれを証明していた。

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