巨根に興味津々のテレクラ女のセックスセンスに感服

巨根に興味津々のテレクラ女のセックスセンスに感服

ハニーラインを使ってテレクラセックスをすることが日常になるまで、私は自分が巨根であるということを知らなかった。

自分のことは自分が誰よりも理解しているつもりでいて、じつは何も知らないということはよくあることだが、私は自分が巨根であるということをまったく理解していなかったのである。

ハニーラインでセックスをすることになるテレクラ女は、みな、私がズボンをおろすと途端に表情が変わる。まず驚愕の表情をわずかにのぞかせてから、それは喜悦の表情に変わる。

私ははじめ、テレクラ女が単なるチ○コ好きであって、チ○コであれば何でも喜び、そういった反応と表情をするのだろうと勘違いしていたのだが、ある日、とあるテレクラ女が私のチ○コを見つめながら呆然と言い放った「大きい……」という言葉で、その認識を改めることになった。

そうか、私のチ○コは大きいのか。そして、そのチ○コの巨大さゆえに、テレクラ女はみなあのようなリアクションをしていたのか、ということが理解されてからは、私がズボンをおろしたときにほぼ毎回のように受け取ることになるテレクラ女の表情は、私にとって不可解なものではなくなった。

しかし、私のチ○コが巨大であることがわかったからといって、私にはまだわからないことがあった。

それは、女性は巨根が好きなのか、大きいチ○コだと嬉しいのか、ということである。

たとえば、私はどちらかというとスレンダーの美乳が好きな人間なので、乳房は大きければ大きいほどいいというわけではない。私は乳房が大きければそれ以外のことはなんでもいいというタイプではないのだ。

それと同様に、チ○コというものも大きければなんでもいいというわけではないだろう。
たとえば、小さくてもダイヤモンドのような硬度を持つチ○コや、ピストンにおける鋭さがさながら研ぎ澄まされた日本刀のようであるチ○コなど、サイズと関係なく、女性にはチ○コの好みというものがあるはずだ。

実際、自分の巨根を自覚してから意識的に観察したところ、すべてのテレクラ女が巨根を見て喜んでいるというわけではなく、私の巨根を見て眉をしかめたり困惑するようなテレクラ女がいたのも事実である。

巨根だからといって自信を持ちすぎるのはよくない。それは、短小包茎だからといって男性としてのすべての自信を喪失するのと同程度の馬鹿らしさではないだろうか。

とはいえ、巨根を前にしたテレクラ女の反応や、巨根に貫かれているときのテレクラ女の喘ぎなどを目の当たりにすると、巨根であることが何か自分の男性としての優位を証明しているような感覚に襲われることを避けることはできない。

なるべく冷静なセックスを心がけているが、どこかでそれを誇らしく感じている自分がいることは否めないだろう。

今回ハニーラインで出会ったテレクラ女は、巨根に憧れを持っているタイプの女性であったため、私としては非常にセックスがしやすく助かった。

今回のテレクラ女は、巨根というものがこの世に存在することは知っていたものの、実際に巨根というものに触れたことも見たこともないようで、ただ茫漠と巨根というものに過剰に期待していた女性であった。

つまり、彼女にとって私の巨根は人生ではじめて関わることになる本物の巨根ということであり、私という主体はテレクラ女と巨根のファーストコンタクトを媒介する役割を担っていたに過ぎない。

巨根の情けないところは、セックスをする主体である私ではなく、私の身体の一つの器官である巨根に興味が注がれて、私の存在が無視されがちだということである。

たとえば「おち○ぽ!おち○ぽおおきいの!」というような漫画的な喘ぎが漏らされるとき、私はその場にいていないようなもので、巨根をはやしている土台にすぎない自分を痛感させられるのだ。

しかし、今回のテレクラ女には感心させられた。というのも、はじめは巨根への憧れで巨根しか見えていなかったはずなのに、次第に、巨根から私の全身に、そして、私自身へと興味を移してくれて、最終的には、お互いに気持ちの通じ合ったセックスになるように心身を開いてくれたからである。実に優れたセックスセンスであると言わざるをえない。

巨根に味をしめたが、それでいて巨根という記号に溺れることがないテレクラ女は、これからさき、ハニーラインで巨根ではないチ○コにふれるときに、そのチ○コ特有の魅力をくみとり、それをセックス全体の快楽へとつなげていく見事な手腕を発揮するに違いない。今後が楽しみなセックス狂である。

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