テレクラハニーラインにおける色情狂同士の出会いとセックス

テレクラハニーラインにおける色情狂同士の出会いとセックス

手がつけられないような淫乱女はテレクラハニーラインを使っている。強すぎる性欲に支配されてセックスのこと以外何も考えることができない私がハニーラインを使うように。

つまり、ハニーラインは、およそ社会生活をまともに送れないレベルで性欲が強い男女の避難所であり、避難所であるハニーラインを利用するという行為は、セックスを通してギリギリの社会性を確保し強すぎる性欲で身を滅ぼさないようにするための処世術なのだ。

手がつけられないような淫乱が結婚した場合、高い確率で結婚生活のなかで性的欲求不満に襲われ、それを解決することもできず健康な精神を歪ませていくことになる。

今回出会った人妻も、おそらくはハニーラインという避難所でセックスをすることによる欲求不満の解消がなかったならば、ありあまった性欲をきっかけにした事件を引き起こし、何かしらの修羅場、生きる地獄のような状況を現世に創出していたに違いない。

もちろん、淫乱だからといって結婚をしてはいけないとはいいたくない。むしろ、結婚に不向きな淫乱であっても結婚してもいいのだ。結婚は女の子の夢みたいなものなのだからその夢を淫乱だからという理由で諦めさせるのはあまりにも酷というものではないか。

旦那の見ていない場所では四六時中オナニーをしていなければならず、夫の勤務中オナニーだけでは我慢できなくなったら、テレクラに電話して見知らぬ男とセックスしなければまともでいることができない、というような色情狂が、結婚生活というものを選んでくれたことに、自分のような性獣は感謝の念を捧げなければならないだろう。

かくいう私も、テレクラという場所でテレクラ女性を相手にしたセックスがなかったら、強すぎる性欲をもとにしてどんなことをやってしまうか、まったく予測がつかないタイプなのである。

私がのうのうと娑婆を歩いて、さもセックスなんか興味ありませんよ、といった顔で仕事をし、社会的に無害な存在として振る舞えているのは、ひとえに、テレクラ、そして、テレクラを利用する今回の淫乱人妻のようなテレクラ女性のおかげである。

私にとってテレクラセックスはガス抜きだ。このガス抜きの作業を怠ったら自分がどうなってしまうかわからないという恐怖が、私をテレクラ利用にかりたて、強迫神経症的な即アポ交渉へとうながす。

今回のテレクラ人妻のような色情狂との出会いは、微妙な違いはあれども似たような病を抱えた者同士が、それぞれの破滅や崩壊を食い止めるための出会いとして機能する。

もちろん、「私たち、テレクラがなかったらどうなっていただろうか」などということを、待ち合わせ場所で合流してからラブホテルに移動しセックスを終えて解散するまで、お互いに口にするということはない。

そんなことを口にするのは野暮なのだし、ある種の「話題にしてはいけない話題」がトリガーとなって、それぞれの病が悪化することもある以上、この話題は避けなければならない。

しかし、言外ににおっている意味のなかで、私やテレクラ人妻のようなギリギリ社会からドロップアウトせずに済んでいるタイプの色情狂は、お互いの抱えている宿痾を理解し、それを性行為を通して語りあい、ともに理解を示すことになるのだ。

たかがセックスで何をそんな大げさな、と思われるかもしれないが、そのたかがセックスといわれるセックスによって、世の中にどれほどの悲喜劇が生まれているだろうか。

ハニーラインという容易にセックスの機会が与えられる場所は、セックスによって引き起こされるのぞまれない悲喜劇を抑止し、セックスの持つ強烈な力を緩和し、「たかがセックス」といえるレベルのありふれたセックスにまで、セックスの持つ意味を鎮める。

セックスにそれ以上の過剰な意味を与えがちな色情狂にとって、テレクラセックスを通したセックスの沈静化は、非常に重要な作業なのであり、私たち色情狂がセックスをきっかけに発狂しないのはこの作業のおかげなのである。

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