ハニーラインで知り合う女を判断する基準はセックスができるかどうか、そして、セックスができるとして、そのセックスが快楽的になりうるかどうかだけであり、他のことはどうでもいいのだ。
異性として付き合いたいタイプと、テレクラを通して出会ってセックスしたいタイプはまるで違う。極論を言うと、テレクラで出会った女で付き合いたいと思った女は一人もいない。
しかし、これは裏返すと、ハニーラインにはセックスしたいと思った女がたくさんいたのだし、実際にセックスをした女から、自分がセックスを通して得たいと感じていた快楽を確かに受け取ったということを意味している。
とにかく、セックスという側面だけに眼を向けるなら、テレクラ、とりわけ、ハニーラインに不満をいだいたことはない。
もちろん、テレクラを利用しているとセックスを御免被りたいようなテレクラ女性との回線が繋がり、出会ってしまうこともあり、それは不満として考えられるのだが、そういった不満は、セックスが気持ちよかったテレクラ女をピストンする時間のなかで忘れ去られ、ノーカウントになるのである。
どうせ服を脱がして全裸にしてしまうのだし、セックス中は肉体の感触に集中することになるのだから、待ち合わせ場所にあらわれたテレクラ女がよほどのブスであるか、デブであるかでない限りは、自分はセックスができると判断し、喜びを感じてしまうのである。
ファッションセンスに難があると感じられたところで知ったことではない。つきあっている女性であれば抵抗が感じるような服装や性格の不一致などというものは、純粋にセックスを目的にしている場合は何一つ意味を持つことがないのだ。
自分はオールラウンドにテレクラ女がだけるタイプではあるが、わがままを言うならば、巨乳でセックスに積極的でありエロくあってくれればもう何も言うことはない。これ以上はないセックスがのぞめる。今回のテレクラ女性との即アポも、テレクラ女性が相当の巨乳であるということとセックス中毒であるということが決め手になったのである。
巨乳でセックスが好きなテレクラ女性に、テレクラ女性以上のことを求めるというのは酷だろう。だから、首元から下がった巨大な十字架のネックレスだとかつばが広すぎるハットであるとか、上下の合わせ方がめちゃくちゃなコーデであるとか濃すぎる化粧などをあげつらって、テレクラ女性を否定してはいけないのだし、苦言を呈してもいけない。
テレクラ女性がファッションのポイントを教えてくれたのであれば、何も知らないフリをしてうなずき、褒めてやるに越したほうがいい。興味があるのはその服の下にある両乳房であり、そして、ホットパンツの奥でじわりと濡れはじめている陰唇だけなのだから。
いやまったく、ブラジャーとパンティだけの姿になったテレクラ女性を見て、ようやく生きた心地がするというか、「出会った」と初めて言えるのではないだろうか。
それまでは、ラブホテルに来ているからといってとても安心できやしないのだ。もしかしたら、服を脱いだ途端に萎えてしまうかもしれないし、あっちの気まぐれでセックスができないかもしれないのだから。
だが、下着だけの姿になったというのであれば、もはやセックスは目前だ。よほどのことがない限り、セックスにあぶれるということはないだろう。それに、嬉しいことに、目の前の女体はしっかりと私を勃起させてくれるのだから、準備は万端だ。
ここまできたならば、あとはセックスをするだけ。そして、そのセックスが素晴らしければ、「最高のテレクラ女だった」という高評価で終わるのだから、まったくテレクラセックス以上に簡単で気楽な稼業は他にはないのではないだろうか。
爆乳を押し付けられながらの乳首舐めや、これぞ素人セックスの醍醐味だと快哉を叫びたくなるようなたどたどしいフェラチオなどがテレクラ女の評価をうなぎのぼりに高めていく。
評価の高まりは射精の接近と同期しているから、「まったく、セックスするだけの関係ならこういうテレクラ女が最高だぜ!」という気分の高揚と評価の上昇は、豊かな射精へと自分が運ばれるということを意味してもいるのだ。
正常位で突き上げながら付き合うのではなく突き合う関係を築けたことに幸福と快楽を感じ、重力に逆らわずにひしゃげて波打つ乳房の揺れに感銘を受け、ちょいブスの喘ぎ顔がむしろ性的快楽を否応なしに強めてくれることにほくそ笑みつつ、私はテレクラ女のだらしない肉体のなかで唯一だらしなくない部位である膣の締め付けに締め付けられるままに射精をすることになったのだった。