テレクラ運が上昇しすぎて完璧な素人女性とセックスできた

テレクラ運が上昇しすぎて完璧な素人女性とセックスできた

調子がいい。ハニーラインを使ってもう十年近くになる自分だからわかる。いま、自分に完全に「テレクラ運」の波がきている。

ハニーラインのようなテレクラを利用していて、ビッグウェーブといえるような「テレクラ運」がきて、それが持続する時期というのはそう滅多にあるものではない。

いや、もちろん小さな波、瞬発的な運気のようなものはあるのだが、ここ最近はどうも異常だ。ハニーラインで繋がる素人女性のレベルが連続して高すぎるのだ。

テレクラ運が低調なとき、待ち合わせ場所にかわいすぎる女の子が立っていたりしても「あれはテレクラじゃねえな」と判断することになるのだし、悲しいことに、そういった判断が外れるということはほとんどない。

かわいすぎる女の子は自分以外の男性なり女性なりと待ち合わせ場所で合流して去っていき、自分のもとには「そこそこ」か「それ以下」の「まあ、テレクラだったらこんなもんかな」と思うような素人女性が「おまたせ」なんていってやってくるというのが相場であり、熟練のテレクラユーザーは、このあたりの微妙さをむしろ楽しんだり面白がったりしてしまう能力に長けてもいるのだ。

ところが、テレクラ運の波にのっているときは、事情がまるで違ってしまう。テレクラでの出会いや、セックス、それから、セフレ獲得率などが、のきなみ、段違いにレベルアップしてしまい、「自分が使っているのは本当にテレクラなのだろうか?」と問いかけてしまうような黄金体験ばかりが自分に与えられることになるのである。

私が自分のなかのテレクラ運が上昇に上昇を重ねていることを自覚し、その手応えを実感したのは、三人連続で美人な素人女性とセックスしたときの中出しの瞬間においてであった。

いたるところに地雷が埋め込まれている地雷原を、口笛を吹きながらスキップするようにして通り抜けても、決して地雷を踏むことなく向かい側に到達できる。私のテレクラ運は、おそらく、その程度にまで高まっていた。

だから、待ち合わせ場所に明らかにテレクラ離れしたかわいらしい素人女性が立っていてもいつものように「あれは違うな」とは思わなかった。「あれは確実にテレクラ運が自分に与えてくれた恩寵だな」と思えたのである。

だから、いつもなら、かわいい女の子の前で右往左往して「違うかな?いや、そうかも……」などと話しかけることに躊躇する私も、今回のテレクラ素人女性を相手にしたときは一切迷うことなく「あの、ハニーラインのAさんですよね?」と話しかけることができたのだし、不正解だったときの「え、ちがいますけど(てか、ハニーラインってなんだよ)」というような怪訝なリアクションが返ってくることはなく、「あ、はい。そうです」という実に嬉しい返事を聞くことができるのである。

おそらく、私のテレクラ運はピークに達していた。今回のテレクラ女性とのセックスを境目にして、運気は次第に減少するか、あるいは、なんの前触れもなく一気に運気が過ぎ去るかどちらかであるだろうと思われた。

というのも、今回のテレクラ女性は、素人女性としてはおよそこれ以上は考えられないような顔のかわいさと肉体の素晴らしさと性格のエロさを持っていたのであって、何も足すことも引くこともできない完璧な素人女性であったのだ。

このセックスを最後に、次は何年後になるかわからない、というような切迫した感覚が私の背骨を走り抜けて陰茎にダイレクトに作用した。

運気が最上にあるときこそ、気を抜いたセックスをするわけにはいかない、目の前の最高級の素人女性の女体のすべてを味わい尽くし、もう二度とセックスができないとなっても後悔しないというようなセックスを目指さなければならなかった。

括約筋をギュッとしめて、私は覚悟を決めてセックスにのぞんだ。最高のセックスをしてしまったがために、加齢とともに減退していく性欲のなかで「あのときの、あの日のセックスからずっと自分は下り坂だったのだ」というノスタルジックな悲嘆が訪れることになろうと、この眼の前のセックスをおろそかにするわけにはいかなかった。

最高のセックスは一瞬だが人生は長い。だが、不毛な一生を最高のセックスの一瞬の記憶だけが支えてくれるとも限らないではないか。

最高のセックスは、もっとも陳腐でありふれたオーソドックスなセックスになる。
テレクラ運気が下降している時期、それなりあるいはそれ以下のテレクラ女性とセックスをするときは、さまざまな工夫を試してみたり技巧をこらしたセックスをして「なんとか、そこそこのセックスを、それなりのセックスにすることはできないだろうか」と努力するのだが、そういった気遣いは一切不要である。

シンプルに唇を奪い、乳房や臀部を揉みしだき、フェラチオをしてもらい、乳首をぺろぺろとなめていただき、そして、濡れた女性器に男性器を挿入し、激しく腰を動かすだけでいい。なぜなら、素材が最高なのだから。不要な工夫や技巧は、むしろセックスの快楽を妨げることになる。

だから、最高のセックスというのは、「激しく腰を打ち付けてピストン運動をして射精をした」ということ以外に何も書けることがないセックスにならざるをえないのだ。

しかし、「セックスをした」という一言には、単なる「セックスをした」という一言ではおさらまない途方もない体験が詰め込まれているのである。

「私は、テレクラ運気が最高の状態に高まっているときに、およそ考えうる完璧な素人女性を相手にして、セックスをした」、私が体験談として書けることはこれだけである。

だが、これだけの出来事から、私は、様々な工夫と技巧をこらした涙ぐましい快楽のための努力の痕跡がにじみでるセックスとその体験談以上の快楽を受け取っているのである。

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